308の誕生 レオナルド・フィオラバンティが語る
文 ルカ・ダル・モンテ 写真 マックス・セラ
「50周年だなんて信じられない」とエンジニアのレオナルド・フィオラバンティは誇らしげに語ります。ここで話題にしているのは彼が1970年代半ばに設計したフェラーリ308のことです。1975年のパリモーターショーで発表された308は、10年間生産され続け、驚異的な16のバリエーションを経て、マラネロの販売台数を押し上げました。
当時、わずか数年前に伝説のフェラーリ365GTB4、通称デイトナをデザインしたフィオラバンティはピニンファリーナのデザイン責任者でした。
「それは私のアイデアでした」と彼は50年前を回想する。「このクルマの少し前にコメンダトーレはミッドエンジンのロードカーを考え始めていて、私もデザインを考え始めていました。正直に言うと、彼は懐疑的なところがありました。彼はミッドエンジンのクルマはプロフェッショナルなすぐれたドライバーが扱うからこそ、素晴らしいレースカーになるが、専門知識を持たない一般ドライバーが普段使い出来るクルマとして販売するとリスクが伴うのではないかと懸念していました。最終的にコメンダトーレはプロジェクトにゴーサインを出しましたが、エンジンは6気筒にしたいと指定してきました」
フィオラバンティが常にコメンダトーレと呼ぶエンツォ・フェラーリは彼の彼への真の敬意の表れです。
「彼はディーノの縦置き6気筒エンジンを使いたかったのですが、私は長すぎると感じてそのアイデアに乗り気ではありませんでした。代わりに横置き8気筒エンジンを提案し、コメンダトーレは同意しました。308は完全に私のアイデアだったというのはそういうことです。私自身はエンジニアには関わってはいませんが。」

当時フィラバンティ氏はすでに8台のフェラーリモデルを自らデザインしており、ピニンファリーナと共にブランドの育成に尽力していたことから、ブランドの精神を知り尽くしていました。
「後に308となるクルマのアイデアをコメンダトーレに持ち込んた時、すでに頭の中にそのデザインがありました」と彼は回想します。
「フェンダーをなくし、シンプルな1本のラインに置き換えるといったディテールを考えれば、1969年のジュネーブショーとトリノモーターショーで公開されたP5とP6プロトタイプで、数々の未来的なアイデアを予感させるアイデアを試みたことを思い出すかもしれません。実際、308は私が以前に手掛けたものよりは過激さを抑え、よりロード志向の進化形だと考えていました。私にとってそれは自然の流れでした。」
当時としては革新的なソリューションであったグラスファイバーの使用もフィオラバンティ自身のアイデアの1つでした。
「単に軽いから提案しただけです」と彼は言う。
今朝、モンカリエーリの丘の中腹にある広々としたガレージ兼アトリエの大きな机に座り、数々の傑作の写真に囲まれていると数えきれないほどの記憶が次々と湧き上がってくる。
「最初のモデルは私がチェントロ・ストゥディの責任者を務めていたピニンファリーナで作られました。ボンネットはアルミニゥム製でしたが、それ以外はグラスファイバー製でした。しかしその後グラスファイバーでは当時の技術の限界により、完全に同一のモデルを製造できなかったため、従来のスチールとアルミニウムの組み合わせに戻ることにしました。
それがクルマの重量を100キロも重くすることになったのです。」
こうして365のプレキシのヘッドライトの場合と同様に、フィオラバンティは自身のアイデアの強さに突き動かされ、グラスファイバーを熱心に推進しましたが、最終的には大多数の意見に屈しなけらばなりませんでした。
財政的な理由からエンツォ・フェラーリでさえ、もはや反対できなくなったのです。
「これはイノベーションにはよくあることです。人々は以前のものと比べて物事がわずかに変化することを好むのです」とフィオラバンティは言い、その後、常に自分に忠実であり、揺るがぬ信念をもつ人物ならではの自信にあふれた言葉で
「私は常にあらゆるものに革命を起こす用意は出来ていましたが、人々はそれについてこれなかったのです」と説明した。
時がたつにつれ、誕生以来優美なラインに恵まれていた308はいくつかの変更が加えられた。例えば、フロントスポイラーの大型化です。
「当時はグランドエフェクトは正しく理解されていませんでしたが、風洞実験では少し揚力があることには気が付いていました」とフィオラバンティは回想する。
「そこでスポイラーを長くすることに決め、それがうまくいきました。もう一度言いますが、これは風洞実験で得たデーターによって決定した単純な変更です。」と彼は指摘し、続けます。
「機能は常にすべての出発点なのです。」と繰り返す。フィオラバンティは自身のデザインに多大なエンジニアリングの影響を組み入れるだけでなく、古典的なものも組み入れることを好んでいます。「美とは何か?」と彼は考えながら私たちは308について語ります。
308の魅力は紛れもないものです。彼は答えとしてプラトンの言葉を引用します。
「美とは真実の輝きである。言い換えれば、まず真実を創造しなければならない。私にとってそれは機能を意味する。機能がその輝きを現す時、そこに美が生まれる。」

308の様々な進化形には、有名なミッレキオーディが含まれます。このクルマは生産されることはありませんでしたが、後に他のフェラーリモデルの開発に影響を与えました。「ミレキオーディの物語は実はとてもシンプルです」とフィオラバンティは説明します。
「より速い速度をだすためには、より大きなリムとタイヤを装着してトレッドを広げる必要がありましたが、それではクルマのボディラインを超えてしまします。そこで、ある日マラネロで、アルミニウムを用意し、何をすべきかを提案しました。
それは安価で魅力的なものになりました。問題はその空力のアルミニウムのパーツをどうやってボデイに固定するかでした。
飛行機で使われているリベットについて考え始め、それが非常に簡単な解決策となりました。マラネロの作業員たちは何百ものリベットを使ってすべてのアルミニウムの部品をボディに固定したのです。これがミッレキオーディ(千本の釘)という名前につながりました。すべてがむき出しのまま残され、銀色のボディはまるで未完成品のような印象を与えました。ミッレキオーディは1977年のジュネーブで発表されました。前述のように生産には至りませんでしたが、そのアイデアは、そのシンプルさゆえに素晴らしく、このクルマは今でも人々を魅了します。
「ほとんどすべてのデザインの背後には隠れされた物語があり、美しさの点で最高のバージョンは常に最初のプロトタイプです」とフィオラバンティは明かす。その理由は簡単に理解できる。
「最初のプロトタイプは常に、それを設計した人物、つまり熟練の献身的な作業員によって設計者に監督され、元のデザインを忠実に再現しているからです」と彼は説明する。
「後になってメーカーがコストやその他の多くのことを懸念し、介入すると、元のデザインは最終的に変更され、ほとんどの場合台無しになるのです。」
しかし308がフィオラバンティの心の中で特別な場所を占めている理由は、あまり知られていない他の理由があります。
倹約家(ケチ)として悪名高いエンツォ・フェラーリは彼にプレゼントとして308を贈りました。
「このモデルのおかげで、フェラーリの生産量は大幅に増加し、常にビジネスの財務面を非常に意識していたコメンダトーレは、まるで恩返しのように私にこの特別な308をくれました。税制上無料で提供することは不可能でしたが、非常に特別な価格でした。
最初はピニンファリーナにロードテストを行うという名目で登録されましたが、実際は私のクルマでした」
なぜシルバーの塗装を選んだのかを尋ねると、フィオラバンティ氏は
「ジウジアーロ、ガンディーニその他すべてのデザイナーは、自分のクルマをメタリックシルバーグレーにすることを好みます。その色はセクションを見やすくするのに対し、他の色は細部を隠してしまう傾向があるからです」と答えました。
「私たちにとっては他の色はあり得ないのです。」と彼は力強く言いました。