2019年のフェラーリの生産台数は10131台。初の1万台を超えた。

カナダのマルキオーネ氏が経営に参加し、利益優先の会社に変えた成果ともいえる。モンテゼモロ氏は2001年には年間の生産台数は3000台が適正と考えていた。私にはそれでも多い気がする。そんな彼も増産、増益を目指すフェラーリの経営陣から追い出される形でフェラーリを去った。

1976年のフェラーリ社の年間の生産台数はわずか1600台にすぎない。

だからこそできた繊細なデザインや今見てもはっとするような美しいインテリアがその当時のクルマにはある。


当時の経営陣はレースをそして美しく、速いスポーツカーをこよなく愛していた。

マルキオーネ氏の経営の才能は素晴らしく、

当時経営危機に瀕していたフィアット社を復活させ、クライスラーをもフィアットの傘下にしてしまう実績は誰もが認めざるを得ないだろう。今やフェラーリも生き残りをかけて2015年には株式を上場した。しかし販売台数を増やすことにより、株主の利益を優先していく経営方針にはモンテゼモロ氏と同じく賛同できない。
そもそも上場する必要があったのだろうかとも考えてしまう。
モダンフェラーリのあの無粋なドアミラーは私にはマルキーネ氏が推し進めたコストダウンの象徴のようにみえてしまう。
今やフェラーリも生き残りをかけて2015年には株式を上場した。昨年は、SF90,812GTS, F8tributo, F8spider,296GTB, 296GTS,そしてローマと7つのモデルを販売している。

ローマにいたってはモダンフェラーリの中ではもっともエレガントではあるが、アストンマーチンを模したようなデザインになっている。一つの車種での量産をしないというかつての方針は踏襲しつつも7つのモデルを同時に販売することで生産台数を増やし、利益を上げるための方策なのは誰の目にも明らかだ。
76年当時は12気筒はBB、8気筒モデルは308GTB そしてDino308gt4 と3種類のみだった。
かつてフェラーリと常に比較されたポルシェも911だけでは生き残ることが難しくなり、

カイエンというSUVや4ドアの

パナメーラなどを次々と発表し、業績を伸ばしてきた、今や911の販売台数は全体の3割にしかすぎない。4ドアのセダンやSUVそしてケイマンなどのスポーツカーが会社をささえている。
あのエンツオフェラーリがフェラーリは2ドアしか作らないと言っていたこだわりも来年には4ドアのSUVの発表でなくなってしまうだろう。
メーカーの利益、そして株主に対する責任という意味でしかたないのかもしれない。
しかしポルシェとの比較でいえばまだポルシェは1970年代の911の面影を現代の911に色濃く残している。

それに対しフェラーリは308のオマージュとして作られた488にはポルシェの911ほど308のスタイルは残っていない。
下の308とは似ても似つかないデザインであるのは誰の目にも明らかだろう。

それに比較してポルシェは911のアイデンティーを今なお大切にしているように見える。
私が今のモダンフェラーリで最も気に入らないのはリヤのデフューザー。

911にはフェラーリのようなCカーにつくようなダウンフォースを生む整流板はつかない。

ロードカーにデフユーザーを採用する必要があるかは私には疑問だ。フェラーリは今やレーシングカーのようなロードカーを目指している。私たち?(今の若者の意見はわからないが)が求めているのはF1のロードバージョンではない。

美しいベルリネッタなのです。売り上げありきの今のフェラーリの経営陣からは決してエンツォが生きていた頃の美しいフェラーリは作られることはないだろう。
フェラーリはかつてはモデナの小さな工場で、限られた人たちのためだけにスポーツカーを提供するメーカーだった。
しかし今やすべての人が運転できるクルマ作りに方向転換しつつある。これも時代の流れといってしまえばそれまでだが、疲れた時には妻や娘、またはガールフレンドにも運転を代わってもらえるようなクルマに変わってしまった。マニュアル車は姿を消し、オートマティックトランスミッションが主流を占める。
一台一台手作りで作られていた308やgt4を乗りこなすにはそれなりの運転技術や常にメーターを見ながらクルマの状況を把握する緊張感が必要とされる。
モダンフェラーリは当時のクルマと比べると、とてつもなく速いが、


コックピットに座った時にふれる冷たいカーボンの太いステアリングからはレーシングカーのような雰囲気はあるが、当時の手作りのよさは感じられない。
イタリア車ならではのエレガントさとスポーツカーとしてのドライビングの楽しさを求めるなら
私はやはり308や

gt4を選んでしまうのです。


70年代に作られたそれらのクルマのコックピットに座り、革巻きのステアリングを握るたびに、私はエンツォのそして彼とともに働いてきたイタリア人の魂を感じるからです。